#05.家と「通り」の関係がおかしい


建築の設計の際、プランニングもさることながら、当初から街並みに対しての興味が私にはある。我々の呼ぶ「建築」には、敷地環境のコンテクストを読みこんだ、高い配慮に感心させられるものが多い。
 
しかし、こと一般的な建物や住宅となると、あまりの無神経さに腹立たしくなるものが圧倒的多数を占める。これでは街並みもあったものではない。
 
たとえば、住宅街で何が足りないのか、考えてみたい。
 
散歩をする気になれないような、居心地の悪さは塀にあるのかもしれない。しっかりと閉ざすでもない為、通りに生活が中途半端ににじみ出ている。それでいて、「見るんじゃない、入るな」といった雰囲気があり、歩いていて気持ち良くないのだ。
 
そもそも、道路からの引きも十分に取れない所に、生垣や塀を作るのには無理がある。
 
かつて町屋、長屋に見られた路地に面した格子は、ファジーな結界を作り出しており、道行く人と中での生活者、双方に恩恵を与えていた。そこには自宅前の通りを自分の庭のように大切にする、といった共存関係があった。
 
生活のプライバシーに対する意識の違いも当然あったであろうが、「通り」と「家や生活」のいい関係があったように思われる。
 
現在ではその意識も大きく変わり、道路は市など公共のもの、他人のものといった意識がある。他人との関わりを避け、プライバシーを重んじる中で通りや町並みを完全に拒絶した、安藤忠雄の「住吉の長屋」は象徴的である。このようにはっきりとした意思表示は、それはそれで気持ち良い。
 
「通り」の存在や関係を考慮しない平面計画や窓を、単にプライバシーや、領界意識の為に塀や生垣で、薄暗い隙間を作って隠そうといった発想が安易である。
 
特にブロック塀にいたっては、通りに対する思いやりもなく「構え」もない。だいいち危険だ。境界線上にバリアを張り、門扉をつけて「構えまがい」を作るのは、島国根性的で貧相に見えてしまう。
 
かといって通りに背を向け、自己の敷地内だけで採光や通風をキープする自己完結型の計画にはなかなかできるものではない。採光、通風を通りに求めざるを得ないので、中途半端に開いて享受する。
 
しかし享受するだけの隠れたような生活は共存でなく、一方的な依存、寄生関係でしかない。かなり乱暴な言い方をさせてもらえば、寄生虫が連なる「通り」が気持ちの良い場所であるはずがない。
 
この寄生関係と「見られること」への建築的無神経さが、居心地の悪さの元凶なのであろう。
 
共生関係の為には外向きの顔とプライバシーが現代生活では必要となる。塀を取り払い、通りに向けた住まいの顔を作る。見られることをきちんと意識した住まいだ。
 
通りと一体になって、通りに潤いと広がりを提供もする。Give&Takeによって「通り」とのあたたかな共生関係がはじめて築かれる。そうすれば、散歩も散策もたのしい「通り」が生まれ、やがてきれいな町並みになっていくであろう。
 
言葉にすれば簡単かもしれないが、プランニングを始め、窓の位置、大きさなど、かなり従来よりプラスアルファの神経と頭を使わなければ実現しない。
 
「通り」との関係、外部と内部の接点を見直すといった、古くから言われているこのテーマを再度検証し、現代番のソリューションを模索していきたい。
 
代表取締役 伊藤 正